帯広道新文化センター ☎ 0155-22-9714 :平日 9:30~18:30 土曜 9:30~18:00 (日曜・祝日休み)

十勝の豆成金と澱粉成金

十勝歴史探求24

会場: 第1教室

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明治30年ころから本格化した十勝国開拓は、入植者の増加とともに農地も拡大を続けた。そこで作付された作物は、手間もかからず肥料も必要としない大豆であったが、やがて高丘地への進出や連作障害が顕著となったことから化学肥料が投入され、有畜農業や輪作体系の確立が急務となった。そんなときにヨーロッパで始まったのが第一次世界大戦だった。この戦争を好機と捉えた十勝農家は…。

【カリキュラム】
①移民の入植と農地の拡大
十勝国開拓は、道内で最も後発となった。それでも、明治25年に貸付地予定存置制度が始まり、十勝国の原野が解放され、北海道国有未開地処分法が公布されると、一気に移住者が増加した。十勝川中下流域の開拓を端緒として徐々に上流域に広がり、大農場や団体入植により、耕作地は沖積地から高丘地に広がった。
②「豆の十勝」の成立
そこで作付けされたのは、商品作物として有利な大豆だった。大豆は、手間もかからず、肥料も必要としない低コストの雑穀であったから明治30年代には「豆の十勝」の名は広く知れ渡っていた。しかし、開拓作業が高丘地にまで広がると、そこは地味皆無の土地で、化学肥料の導入は待ったなしの状態となった。そんな状況のなかで、肥料販売を一手に担ったのが高倉商店だった。
③稲作と十勝
十勝国の稲作は、音更村の増田立吉を嚆矢とする。十勝国で稲作を行うことは、本州から移住した者にとって大きな希望の一つだった。しかし、北海道の気候がそれを許さなかった。ところが、大豆の連作障害による地力回復のため有畜農業とともに稲作が奨励されるようになり、各地に土功組合が結成され、稲作への機運は一気に高まった。そして、水田は、稲作不適地にまで拡大される。
④第一次世界大戦と豆成金・澱粉成金
1914(大正3)年、ヨーロッパで第一次世界大戦が勃発した。ヨ―ロッパが戦場となったことから、日英同盟を結んでいた日本からの輸出が増加した。これにより、菜豆の価格は暴騰し、特に、豆の主産地であった十勝国の農家は大豆から菜豆への作付転換を一気に図り、豆成金・澱粉成金が続出した。これにまつわるエピソードが今日に伝わるが、地域差も大きかった。
⑤地力回復と輪作体系の確立
第一次世界大戦終結とともに全国で小作争議や銀行取付騒ぎが続出し、社会不安が増大した。バブル状態だった十勝経済も、アオエンドウや菜豆などの価格が暴落、さらには1920(大正9)年の長雨による凶作が追い打ちをかけた。豆類一辺倒の作付けが見直されるようになり、地力回復のため甜菜作付けが奨励されて、甜菜工場も操業を始め、農業機械化の動きも出てきた。
⑥金融恐慌と戦時体制への突入
1929(昭和4)年、ニューヨークの株式が大暴落し、世界経済は大恐慌に突入した。日本でも生糸と米価が大暴落し、農村の不況は深刻化した。十勝国の農村疲弊も深刻で、娘の人身売買なども起こり、音更村では「禁酒の村おとふけ」を宣言。軍部は満州事変を起こし、国際連盟からも脱退するなど、国際関係は緊張し、戦時体制へ突入する。それは、農村も例外ではなかった。

明治30年ころから本格化した十勝国開拓は、入植者の増加とともに農地も拡大を続けた。そこで作付された作物は、手間もかからず肥料も必要としない大豆であったが、やがて高丘地への進出や連作障害が顕著となったことから化学肥料が投入され、有畜農業や輪作体系の確立が急務となった。そんなときにヨーロッパで始まったのが第一次世界大戦だった。この戦争を好機と捉えた十勝農家は…。

【カリキュラム】
①移民の入植と農地の拡大
十勝国開拓は、道内で最も後発となった。それでも、明治25年に貸付地予定存置制度が始まり、十勝国の原野が解放され、北海道国有未開地処分法が公布されると、一気に移住者が増加した。十勝川中下流域の開拓を端緒として徐々に上流域に広がり、大農場や団体入植により、耕作地は沖積地から高丘地に広がった。
②「豆の十勝」の成立
そこで作付けされたのは、商品作物として有利な大豆だった。大豆は、手間もかからず、肥料も必要としない低コストの雑穀であったから明治30年代には「豆の十勝」の名は広く知れ渡っていた。しかし、開拓作業が高丘地にまで広がると、そこは地味皆無の土地で、化学肥料の導入は待ったなしの状態となった。そんな状況のなかで、肥料販売を一手に担ったのが高倉商店だった。
③稲作と十勝
十勝国の稲作は、音更村の増田立吉を嚆矢とする。十勝国で稲作を行うことは、本州から移住した者にとって大きな希望の一つだった。しかし、北海道の気候がそれを許さなかった。ところが、大豆の連作障害による地力回復のため有畜農業とともに稲作が奨励されるようになり、各地に土功組合が結成され、稲作への機運は一気に高まった。そして、水田は、稲作不適地にまで拡大される。
④第一次世界大戦と豆成金・澱粉成金
1914(大正3)年、ヨーロッパで第一次世界大戦が勃発した。ヨ―ロッパが戦場となったことから、日英同盟を結んでいた日本からの輸出が増加した。これにより、菜豆の価格は暴騰し、特に、豆の主産地であった十勝国の農家は大豆から菜豆への作付転換を一気に図り、豆成金・澱粉成金が続出した。これにまつわるエピソードが今日に伝わるが、地域差も大きかった。
⑤地力回復と輪作体系の確立
第一次世界大戦終結とともに全国で小作争議や銀行取付騒ぎが続出し、社会不安が増大した。バブル状態だった十勝経済も、アオエンドウや菜豆などの価格が暴落、さらには1920(大正9)年の長雨による凶作が追い打ちをかけた。豆類一辺倒の作付けが見直されるようになり、地力回復のため甜菜作付けが奨励されて、甜菜工場も操業を始め、農業機械化の動きも出てきた。
⑥金融恐慌と戦時体制への突入
1929(昭和4)年、ニューヨークの株式が大暴落し、世界経済は大恐慌に突入した。日本でも生糸と米価が大暴落し、農村の不況は深刻化した。十勝国の農村疲弊も深刻で、娘の人身売買なども起こり、音更村では「禁酒の村おとふけ」を宣言。軍部は満州事変を起こし、国際連盟からも脱退するなど、国際関係は緊張し、戦時体制へ突入する。それは、農村も例外ではなかった。

講座詳細

クラス 一般
曜日・時間 第2・4 木曜日
18時30分 ~ 20時00分
受講料金ほか

2024年4月~6月(6回)
受講料金:11,880円
資料代:660円

※受講料金は、受講料と施設使用料を合わせた金額です(一部講座を除く)。 そのほか、教材費(テキスト、資料、教材などの費用)、団体傷害保険料が必要な講座があります。 講座内容によって異なりますので、詳細はお問い合わせください。

持ち物・ご購入いただくもの

●持参品/筆記用具

会場

第1教室
帯広市西4条南9丁目 帯広道新ビル3階

講師

後藤 秀彦
十勝管内博物館学芸職員等協議会顧問

講師プロフィール

1947年浦幌町生まれ。立正大学文学部史学科(考古学専攻)卒。浦幌町教育委員会事務局勤務後、浦幌町立博物館長、教育委員会管理課長、同教育次長を歴任。2009年定年退職。これまで、北海道遺跡等調査員、北海道考古学会委員、北海道発掘調査促進方策検討委員会委員、文化庁重要考古資料選定委員会委員、史跡ユクエピラチャシ跡保存整備委員会委員、北海道立帯広美術館協議会委員、帯広市文化財審議会委員、帯広百年記念館運営審議会委員、帯広大谷短期大学非常勤講師など。

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〒080-0014 帯広市西4条南9丁目1−4 道新ビル3F

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